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2018/10/11

2087 ファド

ちあきなおみの「待夢」というアルバムのなかに ”ひとり芝居” というナンバーがある。これはファドの女王アマリア・ロドリゲスのオリジナル"MEU AMOR, MEU AMOR"と同じ曲だ。ただし日本語の歌詞は別の世界を歌っていて、このことを知ったのはクリスティーナ・ブランコの”Corpo Illuminado”というアルバム https://www.youtube.com/watch?v=a9xIBVFVwU8 に入っていたからで、ずいぶん似た曲があるものだと思ったものだ。本家の歌唱は知らなかったが、YouTubeで聴いてみると https://www.youtube.com/watch?v=eOhXoT1OCvU さすが女王の貫禄というか”慟哭の深さが段違いで、アラブ的な存在の強さがある。では、ちあきの歌唱がアマリアに劣るかといえば全然そんなことはなくて、静謐のうちの躊躇いが凄い。較べる意味はまったくないのだが・・・。(画像はグーグルストリートビューから拝借した。)



2018/10/09

2086 表現のプラットフォームとして

”幻聴日記3”のアーカイブ化に際して、2004年当時の記述を改めて読んでみるとなかなか良いのだ!こんな事を書いているんだと驚くことしきり。近年のポテンシャルの低さを如実に示していて恥ずかしい。オーディオ再生という概念を持ち始めたのが10代後半だったから、ほぼ35年間くらいの蓄積があったわけで、それが半年くらいの期間に表現として結実していると思った。表現行為というものは吸収のあとに来るのが道理で、出し続けるには同じ量を吸収していく必要がある。自転車操業では日常の諸々が題材になるのが常だろう。という次第で’究極のリアル?”では写真とテキストのクオリティを復活させたいと願っていて、いろいろな意味で”旅”が必要と思い始めている。机上の空論ではなく(笑)



2018/10/08

2085 音楽を聴くこととオーディオ装置の危うい関係について

既知のソースを再生する場合に限定すると、脳内に蓄積した記憶との照合という、一般的な音楽愛好家からみればほとんど意味のない作業が潜在的に繰り広げられている。これはオーディオマニアにとって大きな意味をもっている。記憶のなかの生演奏との比較もあるが、ある時ある場所で聴いた至高の再生体験はとくに重要だ。一関ベイシーにおけるビリーホリデイや菅野沖彦邸のシベリウスとドヴォルザーク、これらが体内で結晶化している。いま、この部屋で鳴っている音楽は過去体験のレイヤーの上に成り立っていると考えると、オーディオは複雑かつ心躍るものではないかと思う昨今・・・。



2018/10/08

2084

 



2018/10/08

2083

 



2018/10/06

2082:ご挨拶

”究極のリアル”なんて大上段だが、末尾の”?”が自信のなさを物語っている。前身のブログ「幻聴日記」は2004年春のスタートで、この時わたしは53歳だった。それから14年以上が経過しすっかりジジイになったわけで、今回はそれほど続かないと思うが、人生最終章のプラットフォームであることに相違ない。”幻聴”と”リアル”はわたしの脳内では似た領域を指していて、だから写真もテキストも代わり映えしない筈だが、”幻聴”はこの症状で悩んでいる人のことを考えると、対外的にはタイトルとして相応しくないのではとこの数年悩んでいた。

2004年当時、日本においてはブログ形式の個人発信が始まったばかりで、多くはホームページを更新する方式だった。昨今隆盛を極めるSNSにしてもFacebookの開設がこの年だったことを考えると、「幻聴日記」はいい線行ってたと自画自賛(笑)

今回のリニューアルに際しては、既成ブログのアレンジで行こうかと検討したのだが、よりシンプルを目指すとこのCGI制御で十分をいう結論に至った。写真をリアルサイズで大きく表示させることを重視し、デフォルトサイズを左右1440pxとした。初期の「幻聴日記1」は左右640pxでここは時代を感じる部分だが、スマホの写真ばかりアップするなという無言の圧力をじつは目論んでいる。