1801 記憶のなかの名舞台1 武原はんの鷺娘
 上方舞の名手であった武原はん(1903-1998)は、28歳のときに上京し、以後東京が活動拠点になる。京阪では井上流(四世井上八千代)が主導権を握っていたのがその理由かどうかは存じあげないが、あれだけの美貌だったから、というのは単なる邪推である。
翌年29歳で、青山二郎(生涯無職の高等遊民的文化人かつ装幀家)と結婚し、木挽町の「なだ万」で働くことになる。働くといっても準女将みたいなポジションだったのだろう。その後、離婚をはさんで「なだ万」からの退職・復帰・退職を経て、赤坂に高級料亭「はん居」を開業する。このとき50歳くらいか。さらに、10年後の昭和38年に六本木に移転し、そこには立派な稽古舞台が設えてあり、最晩年までこの舞台で上方舞の稽古に邁進する。このあたりから武原はんの舞踊家としてのピークが訪れる。彼女は弟子を取らない主義で、例外として女優の藤村志保がいらっしゃるが、流派的な囲いを作らず、一匹狼として舞台に立った。芸道の純粋追求のために自らの経済的バックグラウンドを確立させていたわけで、彼女が非常な合理主義のもとに自身の芸を育んでいたと言えるだろう。
わたくしが武原はんの存在を知ったのは昭和40年代初めで、国立小劇場で催された京阪の座敷舞という企画だった。さきの井上八千代を筆頭にピーターのお父上である吉村雄輝など人間国宝クラスの錚々たるメンバーが出演していたのだが、武原はんの美しさ(所作も外形も・・・)は他の演者を圧倒していたように思えた。
その後数年たらずで彼女は引退する。しかし引退というのは名目上で以後もたびたび舞台に立つ。その艶やかさと枯れた風情の均衡がやや後者に傾くころ、とても印象的な舞台があった。
それは、ある経済団体(日本経済研究奨励財団)が主催したリサイタルだ。丸の内の帝国劇場で催され入場料は一律10000円だった!当時は家元クラスのリサイタルでも5000円程度が普通だから破格だ。わたくしにそんな財力はなかったが、長唄三味線の師匠であった今藤政太郎師の鞄持ちで楽屋口から入り込んだ。演目に長唄「鷺娘」があったがための幸運だ。
上方舞は地唄で舞うもので長唄を用いるのは異例であり、「鷺娘」はスペクタクルなシーンもある華麗なグラウンド舞踊で、彼女がどのように料理するのか興味は尽きなかった。地唄舞(上方舞)のステージは左右に配置した燭台から背面の屏風までがその空間ということになる。能舞台の京間三間四方(6m/6m)を超えることはない。広大な舞台面を持つ帝国劇場といえども中央の極小スペースがパフォーマンスの全宇宙なのだ。歌舞伎舞踊の「鷺娘」では間口十五間(27m 歌舞伎座の場合)のプロセニアムを使ういわばスペクタクル舞踊だから、まったくの異次元舞台になるだろうと予想した。
もともと「鷺娘」は変化舞踊の一コマとして演じられたが、いまでは単独で上演される。明治期に九代目団十郎が、恋の懊悩を主題として完結させたと伝えられている。鷺の化身としての娘が恋の煩悩からやがて怨念になり、最後はボッシュの地獄絵のごとく責め苛まれ雪のなかで息絶えるという、華麗と壮絶をセットにした一幕。クラシックバレエの「白鳥の湖」に似ているかもしれない。
武原はんの「鷺娘」の楽曲構成は歌舞伎舞踊の流れを踏襲していた(モジュール構成という意味で)。ただ、外に放射するような表現を徹底的に抑え、ひたすら自身の内面に向かうまさに地唄舞の領域だった。自家薬籠中の「黒髪」や「ゆき」と同質の抑制された青い炎と言えばよいのか。驚異的なのはそのテンポ感覚で、これだけスローな「鷺娘」は初めてだ。しかし、スロー、イコール緩慢ではないのだ。張り詰めたテンションが途切れないギリギリの時間感覚! どこぞの肥満系女形のうごめくような緩さとは対極にある表現世界。
演奏陣は今藤長十郎を立三味線とする社中で鼓は名手四世藤舎呂船! 終演後に脇三味線を勤めた今藤政太郎氏に伺った話では、可能なかぎりゆっくり演奏してほしいとの要望が武原はんからあったとのこと。
終章 ♪終(つい)にこの身はひしひしひし 憐れみたまえ我が憂身 語るも泪なりけらし・・・
緞帳が下りる直前、彼女の微動だにしない躯が緩やかに低くなっていく。まるで雪像が溶けるかのごとく。見事な、そして感動的な所作であり、それを具現する武原はんの身体能力! まさにこの舞台の白眉だ。これも、あとで聞いた話だが、緞帳が下がったあと、武原はんも演奏陣も長いあいだ無言で佇んでいたそうだ。涙を浮かべている演奏家も多かったと。(この記事は姉妹サイト<at sense>のコンテンツを改訂しアップしたものです。) |