1814 五輪エンブレム問題からデザインの本質を考える
 五輪エンブレム問題は、デザイン業界の怪しい現実を浮かび上がらせた。
Sデザイナーは、発想が異なるので仮に似ているように見えても、ベルギー案とは似ていないのだと、意味不明な強弁をしているが、その考え方は間違っている。発想はカタチに宿っていて、それこそが価値なのだ。
ただ、そのフォルムは、ゼロから生まれるのではない。 その意味は後述する。
昨日の朝日新聞にデザイン評論の柏木氏の意見が載っている。 東京五輪五輪エンブレムは、ベルギーの劇場マークとは似ていないと断言していて、ベルギー案には円の概念が伺えないからと!
これでデザイン評論が出来るのかと唖然とした。ベルギー案こそが、円の概念(それも二重の意味で)を具現化したものだ。対して、東京案では、背後に円が伺えるとはいえ、基本形は正方形で、だからこそ「T」の矩形はそれに従っている。パラリンピック案に至っては、円の意味が破綻しているのは一目瞭然。赤丸の余白を黒で処理した致命的ミスだ。要はご都合主義的コンセプトなのだ。
別件のトートバッグでケチがついたので、 エンブレムも撤回すべきは、まさに正論。クリエイターとしての在りようの問題から、もしや本人もそれを望んでいるかもしれない。ところが、コンペの選考過程を見るにつけ、背後の組織(広告代理店、大手メディア、プロジェクト所轄)が敷いたレールに乗っただけのデザイナーには、すでに撤回する自由が無くなっているように思える。身から出た錆とはいえ・・・
建築・土木の利権誘導は、広く蔓延しているが、莫大な資金が移動する分野では、デザイン・広告といえど例外ではなかったという実態が知れ渡った。クオリティより利権や利潤が優先しているのは、近年の新聞広告の出来映えからも容易に察せられるが、制作者のモラルまでが崩壊している現実は恐ろしい。
エンブレムの審査員には、わたしが憧れた偉大なデザイナーも含まれていて、このような出来レースに異議を唱えなかったことはとても残念だし、彼らが真相を語る可能性もないだろう。
日本のデザイン業界なんて、その程度のものと割り切るべきなのか? 同じ業界の片隅で生きてきたわたくしは複雑な心境だ。
デザインはゼロから何かを生むものではない。 自然界にすでに存在するであろうフォルムや色を、あらためて発見し、テーマに落とし込む作業なのだ。パクリかどうかという下世話な話は個人的にはどうでも良くて、先に発表されているものに似ていたら、謙虚に引き下がるべきなのである。それが、最初に発見した人への敬意であり、自身のプライドを保つ唯一の方法と思う。 |