912 音楽という多面体を受け入れるということ
 正確な記録とか、正しい再生とか、果ては原音再生とか、そういう考えはすべて疑うことにしている。
はたして、世界は明確に定められているのか? ということである。
演奏する人間も、音を伝える空気の粗密波も、揺らいでいて不確かな事象に思えるということは、この日記で何回か述べてきた。しかしながらテクノロジーはこの不確かな世界を正確に記述するために進んできたというのも事実だ。
録音・再生という仕組み、というよりレコード音楽を聴くということは、観測&記録→伝達→再生&観測というシンメトリー構造の末端に聴き手が位置するということだ。
機械が大きく介在するにせよ、主体は採り手や聴き手の意志だ。音楽は時系列に従って順方向にしか進まないのに、聴き手の意識はそうとは限らないというところが面白い。ある音を聴きながらその音の前の音に意識が行ったりする。音楽を聴くということは、狭いスリットから時間経過を感じるのではなく、流れに同期した意識、というべきか・・・ それは過去・未来にわたって滲んでいるように思えるのだ。
レコードで繰り返し聴く演奏は、未来さえ意識の中にある。短いスパンではあっても過去・現在・未来が入り交じった時間の滲みの中心核が音楽と同期するのではないだろうか。
・・・別に結論があるわけではない(笑)
音楽という多面体にどう立ち向かうか、ということ。自分の聴き方の話で恐縮だけど、すべてを受け入れるほどキャパがないから、部分聴きを繰り返す。100回聴いてすこし理解した気がする。だからディスクはあまり増えない(笑)
という舌の根も乾かないうちに、こんなものをGETした。
「長唄の美学」CD54枚セットという大作である。現在も長唄の最高位にある杵屋五三郎(三味線)と宮田哲男(唄)らが1991年から8年の歳月を費やして完成させた。この中の楽曲たちを100回づつ聴く時間は残されていないと思うけれど・・・ |