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2011/10/31
1388 yellow_a

EOS-5D MarkII + Makro-Planar 2/50 ZE






2011/10/27
1387 Y氏邸 アコースティックコントロールの技

間口5m、奥行き7.5m、天井高3.5mの大空間である。
床のフローリングは良くあるようなコンクリート土間打ちにベタ接地ではなく、しっかりした木組みと構造合板で受け止める構造。これは、振動によるストレスを逃がすだけでなく、重量のあるオーディオ機器の接地点とのチューニングの余地を残した、いわば匠の技を求められる仕様と言えるだろう。Y氏はスピーカーだけでなく、パワーアンプの重さも床の振動コントロールに利用するという、途轍もない領域に踏み込んでいる。

最大積載量という概念がオーディオ再生にもあるとすれば、Y氏の繰り出すサウンドはまさにその最大値にあると思った。同行をお願いしたNさんが持参したソフト「Jean Barraqu 作品全集」の壮絶Dレンジと精緻極まる解像力、CDフォーマットにここまでの情報が込められていることに驚き、それを再現する装置にまた唖然とした。Y氏のリファレンスディスク「Arvo Part: De Profundis」は教会音楽のエッセンスを込めた12音階現代音楽という趣と感じたが、咆哮から静寂までのグラデーションの描き方からは装置の限界を掴むことが出来なかった。まさにこの空間が音楽を奏でているというレベルだ。

遮音に留意した広大な空間だが、壁面に収音系の処理は行っていないようだ。スピーカーと側壁までの距離がとれ、一次反射に時間差のある適度なディレイを保てるので、音がスピーカー近傍にまとわりつかない。狭小空間のような吸音対策が不要なので、音が活きたまま拡散する。じっさいスピーカー後方のコーナー部分で聞き耳を立ててみたが、音楽的なスペクトラムバランスが失われていないのだ。

Y氏は幾多のスピーカー遍歴で有名だが(笑)その理由は容易に分かる。この万全のアコースティックキャンバスゆえ、スピーカーのポテンシャルを判定し、最適な対処を施し、その限界値を探るという趣味。間違いない、たぶん(^。^)




2011/10/27
 

 



2011/09/30
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2011/09/29
1383 遅い夏休み・・・

湯田中温泉「萬屋」松籟荘にて
木造3階建て数寄屋造り。部屋の隅には石油ストーブが・・・



2011/09/08
1382 PlayBack「音を語る言葉・表現について」

音楽をお聴かせするわけでもなく、慣れないトークだけで展開できるものなのか甚だ不安でありますが、今日は「音を語る言葉・表現について」がテーマということで、言葉をコトバで語る難しさ、あるいは理屈っぽい言い回しになる予感、、、事前にお詫びしておきます。

まず、簡単な自己紹介をさせてください。
オーディオ関連の広告制作やウエブ構築を仕事にしています。主に輸入代理店、国内メーカーがクライアントでありますが、けして、この業界の人間ではありません。いつのまにか、この分野の仕事しか無くなったという次第であります。

仕事のオーディオと趣味のオーディオはまったく別物で、そもそも、主要な機器は自作が中心で、スピーカーが15年、プリアンプは12年使い続けています。新しい機器を購入するのは2年にいちどくらいなので、業界の売り上げにはまったく貢献しておりません。
特典といえば、最新鋭のハイエンド機器を真っ先に手元で眺められることくらいですね。ステレオサウンドの編集部より先に触れています。

で、本題ですが、音を語る前段階として、再生音楽の基盤というものを個人的なキーワードにしてみました。
「音を語る言葉」とはちょと異なる視点ですが、重要なことと思うので・・・とはいえ、実はキーワードしか準備できなかった(笑)

PlayBack
録音したテープを巻き戻して再生することを意味しています。録音とは音を刻むことですが、時間を記録することでもあります。再生においては録音された時空間へタイムスリップするのか、あるいは現在のこの空間へ引きずり出すのか、オーディオの音響を考える場合、意識の持ち方として違いがあるかもしれないと考えています。
そういえば、山口百恵のPlayBack part IIの歌詞に注目したわけですが、1番の「バカにしないでよ。そっちのせいよ」がpart II(昨日のわたし)で2番「勝手にしやあがれ、出ていくんだろ」がpart I(もっと以前のあなた)だったと思いますが、時空の多相性というものを上手く表現していると感心しました。

演奏の一回性
一回性の反対語は反復性です。常識的にはレコードは反復性の象徴のように捉えられますが、じつはそうでもないというのが、ここからの話です。生演奏は演奏者と聴衆が時空間を共有することであり、聴き手が演奏に介入することも可能なのですね。レコードはある意味で終了した音楽と言えますが、レコーディングスタジオでの演奏は、音楽再現のための素材といえないだろうか?と考えると、再生時にスピーカーから空間に放たれる時が音楽の誕生であり、言い換えれば、演奏の一回性をこの時点まで引き延ばしたと考えられる。という視点から「レコード演奏家論」を分析してみます。

レコード演奏家
菅野さんの提唱なさった「レコード演奏家」と言う概念に共感します。さきに申しあげた、演奏の一回性という意味でですね。再生といえども同じ音というものはこの世に存在しないと思うからです。レコードを反復性だと考えれば、「演奏家」なんて言い方は、なんと烏滸がましいということになってしまいます。
とはいえ「レコード演奏家」と言うネーミングは失敗じゃないでしょうか。あらぬ誤解を招いてしまいました。Record Playerという表現で良かったのです。erは人間。ターンテーブルのことではなく、ね。

聴き込むこと、聞き流すこと
演奏者の時間軸と聴き手の時間軸がシンクロするのが「聴き込む」ということ。その意識なしに、音楽が通過していくのは「聞き流す」ということと認識しています。これは生演奏であろうと再生であろうと変わらないと思います。例えばニュアンスという言葉。時間経過の中で微細レベルがどう動くかを感じることですね。それは、固定されたスリットからは絶対に覗けない部分です。また、「グルーブ感」と言う表現は説明が難しい部分ですが、これはブラックミュージックの独占物ではなくクラシック音楽でも三味線音楽でも当然あると思いますが、これこそ、聴き手を時間経過にシンクロさせる音楽(あるいは演奏者)の力ではないだろうかと考えるわけです。

と、ここまで理屈っぽくて申し訳ないのですが、「音を語る言葉」について、これから対談になろうかと思いますが、文字についていつも考えていたのは、文字は離散データである、というとなのです。言葉は(とくに単語)名詞も形容詞も、個々の来歴で意味は似ていても重み付けはそれそれ異なります。作家はこのような幅のある言葉を積み上げながら真意を伝えようとします。読み手は、ある種のローパスフィルタを機能させることで、作家の意図といいますが三次元的全体像を得られるのだと思います。まさに人間DAコンバータですね。要は、個々の単語のなかに真意はなく、伝えたいものは言葉の外にある。見えるもので見えない世界を描くアートと同じではないかと。そのような観点で「音」の表現を考えてみたいと思っています。(以下、宮ア勝己氏との対談へ・・・)

 2011.09.07 四谷三丁目 喫茶茶会記にて 
 キーワードを頼りになにを喋ったのか反芻してみました。
 この文章のようにスムースに話せていませんし、抜け落ちた部分もあろうかと思います。




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